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薬種商の館 金岡邸
富山売薬のルーツ

富山売薬のルーツ

先用後利
 江戸時代に取り入れられた一種のクレジット商法(長期信用取引制度)。
 お得意さんに先に薬を預けておいて、後に使用した分だけの代金を頂くこのシステムは、現金収入の少なかったこの時代に大変喜ばれ、富山売薬の発展、存続の大きな要因の一つとなりました。

柳行李

 富山の薬売りのトレードマークともいえる柳行李(やなぎこうり)は、重さが20kgもあります。これを背負い、毎日20〜30kmの道のりを歩いたり、船便を使ったり、時には馬の背に乗せたりして行商しました。

 中には、薬の他に、懸場帳(かけばちょう)やそろばん、お得意さんへのおみやげ品の紙風船などが入れてありました。

柳行李

 五千年の知恵の結集
 (薬の製造)

薬研
 原料を粉にするために使われた薬研(やげん)。

 売薬さんや職人たちが、技と勘を駆使して薬を製造していました。

 薬効のある鹿の角生薬を混ぜ合わせ、散薬、丸薬、煉薬などに成形していました。
角生薬
各種製薬道具
石臼

(薬の原料)

「ジャコウジカ」の剥製
   (中国科学院から寄贈された貴重なものです。)

肩までの高さわずか40cmの小柄な成獣。
中国やチベットの高山を駆け回ります。雄は、腹部に香袋を持ち高貴薬に使われます。

原料の大部分は、中国など東南アジアから輸入した最高の生薬。
富山の薬種商がそれらを仕入れて“売薬さん”に販売していました。

麝香鹿
各種生薬
生薬サンプル

売薬版画

おみやげ品のひとつとして人気があった“売薬版画”。
各地の庶民文化を刷り込んだ絵紙は、三都(江戸、大阪、京都)などの中央から、遠く離れた所に住む地方の人々に対し、文化的情報とともに、夢も与えていました。

売薬版画
版画展示

富山売薬と金岡邸
 資本家として力のあった薬種業者たちは、県内各地に金融機関をはじめ、鉄道、繊維、水産、出版や印刷など広い分野に投資をし、富山県の産業の育成に貢献しました。
 たとえば、金融では、明治11年設立の第百二十三銀行や明治後期設立の第四十七銀行など多くの銀行に売薬業者の資本が入っており、これらが統合され現在の北陸銀行となっています。
 金岡家は、江戸末期より薬種商を営んでいました。
その家祖、金剛寺屋又右衛門の長男として生まれた金岡又左衛門は、若い頃から人々の信頼を集め、県議会議長、衆議院議員を歴任しました。
 明治32年(1899)に、大久保発電所を完成させ、北陸で初めての灯をともし、その後次々と発電所を建設しました。(現 北陸電力株式会社)。
  また、大正2年(1913)に富山軌道株式会社の創立委員長を務め、北陸初の電鉄の工事を完成させ、その後、大正11年(1922)には、常願寺川治水同盟の会長となり、砂防工事を国営事業に組み入れるよう国政に働きかけました。
 そのほかにも、紡績、育英事業などにも尽力し、富山県の経済基盤の土台づくりを成し遂げています。
 二代目又左衛門は、第一薬品株式会社を創立し、また、富山合同無尽株式会社(現 富山第一銀行)を設立しました。
 三代目又左衛門は、初代の心を引き継ぎ富銀育英会を設立し、育英事業で社会に大きく貢献しました。
 また、五代目当主金岡幸二は、昭和39年にいち早く情報産業である株式会社富山計算センター(現 インテック)を設立するとともに、富山国際大学を創立しました。
 金岡家の歴代当主は、薬種商時代の資本を元に富山県の経済界に力強い足跡と多くの業績を残しています。

薬種商
富山売薬

先用後利・
柳 行 李

五千年の知恵

売薬版画

富山売薬と
金岡家

くすりの小袋
デザイン